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1話 A Loving Memory

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 『はじめまして』と声をかけたのは、確か、私の方だった。

 

 私に背を向けて立っていた彼は、その声に肩を揺らして振り返る。思わず目を見張るほど綺麗な顔立ちをした彼に、私の胸は大きく高鳴った。

 

 視線が合っていたのはほんの一瞬で、彼は戸惑ったように少しうつむく。

 

 

『…はじめまして』 

 

 

 私がそれまで会ってきた人達と違って、彼は微笑さえ浮かべないままそう言った。それきり黙ってしまったので、私はゆっくりと彼の元へ歩み寄る。

 

 そして彼が先程まで見ていた場所に、ピンクの薔薇ばらが咲いていることに気がついた。

 

 

『薔薇を見てたの?』

 

『うん』

 

『好きなの? 薔薇』

 

 

 彼は答えなかった。代わりに、薔薇の方に向き直って私に尋ねてくる。

 

 

『…君は好き?』

 

『好きだよ。前にお姉ちゃんが言ってたの。薔薇園で一人泣いてたら、王子様が迎えに来てくれたって』

 

 

 意味が分からないという顔をしている彼の隣に並び、私は薔薇に顔を近づけ、大きく息を吸い込んだ。甘い匂いに頬が緩む。

 

 

『王子様っていうのはね、お姉ちゃんの婚約者のしんさんのこと。お姉ちゃんは最初、お見合いをするのが凄く嫌で、会場に来てから相手の人に会う前に逃げ出したらしいの。でも薔薇園で一人泣いてたら、お見合い相手の慎二さんが探しに来てくれたんだって。それから二人はすぐに仲よくなって、今は両想いなんだよ。私が今日来たのも、その話を聞いて、お見合いをしてみたいと思ったからなんだ』

 

 

 お姉ちゃんは私の憧れだった。いつか私も、お姉ちゃんみたいに好きな人と幸せになりたい。

 

 

『羨ましいな』

 

 

 ぽつりと、彼が小さな声をこぼした。

 

 

『俺は、兄さんとは仲がよくないから。お姉さんとそんなふうに話せる君が、ちょっと羨ましい』

 

 

 そっと彼の顔を見上げると、薔薇に目を落としたまま、切なげな色の瞳を揺らしていた。それがとても儚げで、私は咄嗟とっさに彼の手を握っていた。

 

 彼は驚いたように私を見る。ようやく私を見てくれた。

 

 

『だ、大丈夫だよ!』

 

『え?』

 

『寂しくないよ! 私がここにいるから、一人じゃないよ! お兄さんだって、きっとあなたのこと嫌ってなんか…』

 

 

 何とか励まそうとするものの、一度も会ったことのないお兄さんが彼をどう思っているかまでは分かりっこない。ただ目の前にいる彼を、私よりずっとたくさんのものを背負っているであろう彼を、元気づけたくて。

 

 だけど結局、言葉は最後まで出て来ずに、私は口をつぐむ。何も知らないくせにと、怒られるかもしれないと思った。

 

 少しの沈黙の後、うつむいていた私に向かって彼が言葉を落とす。

 

 

『―――ありがとう』

 

 

 つないだままだった手に力が入れられ、ゆっくりと私の手を握り返す。顔を上げれば、彼は私に微笑みかけていた。

 

 

『今日君に会えて、よかった』

 

 

 彼の笑顔がとてもきれいで、笑ってくれたことが嬉しくて、鼓動が突然速くなる。

 

 

『……本当は、渡すどうか迷ってたんだけど』

 

 

 そう言って、彼はスーツのポケットから小さな黒い箱を取り出した。そこにはシンプルな、けれども美しいデザインの指輪が二つ並んで入っていて。

 

 彼はその内の一つを取り出すと、私の手の平にそれを乗せる。

 

 

『よかったら、君にあげる』

 

『うわあ、こんなに綺麗なもの私がもらっていいの?』

 

『うん』

 

『ありがとう! ずっと大事にするね!』

 

 

 彼が私にくれたということが嬉しくて、満面の笑顔で言う。すると彼も微笑み返してくれたから、胸の奥がじんわりと温かくなっていった。

 

 私は両手で指輪を握り込み、もう一度、ずっと大切にしようと思った。この時の彼の笑顔を、忘れないようにするために。

 

 

 

 それから、十年後。

 

 私は私立秀麗しゅうれいかん高等学校の制服に身を包み、一年経ってようやく見慣れて来たその姿を鏡越しに見つめる。茶色のブレザーに赤黒チェックのスカートと、黒のハイソックス。白いシャツの胸元には、赤いリボンが付いている。鎖骨下まで伸びる真っ直ぐな黒髪を整え、私は鞄を持って部屋を出た。

 

 リビングに行くと、ドアの前で新聞を取りに行っていたらしい弟と鉢合わせた。私と二歳違いで今年中学三年生になった弟の奏汰かなたは、今日も朝から頼もしい。

 

 

「おはよう奏汰。昨日も夜遅くまで勉強してたの?」

 

「おはよ。かな姉さんこそ、昨日は璃子りこさんと遅くまで話してたみたいだね。姉さんは昔から夜更かしするとすぐに風邪ひくんだから、璃子さんももう少し時間を考えて電話して来ればいいのに」

 

 

 二人分のトーストとコーヒーを用意しながら、奏汰は淡々と告げる。クールな物言いはいつものことで、幼さの残る顔立ちにも関わらず、私よりずっと大人びて感じるのもいつも通りだ。

 

 

「気づいてたんだ。勉強の邪魔しちゃいけないと思って声かけなかったんだけど、今度かかってきたら替わろうか?」

 

「俺はいいよ。特に話すこともないし。早く食べないと遅刻しちゃうよ」

 

「あ、うん」

 

 

 私達の両親はグローバル系企業の社長とその夫人。私達が幼い頃から、二人は一年の大部分を海外で過ごしていた。私達は姉弟三人で暮らしていたけれど、お姉ちゃんが大学卒業と同時に結婚してからは、私と奏汰の二人だけでこの広い家に住んでいる。といっても、お姉ちゃんは大学時代から婚約者の家で花嫁修業をしていたから、私達とこの家にいたのは七年前までの話だ。

 

 物心ついて数年間しかお姉ちゃんと過ごしていない奏汰は、お姉ちゃんのことを他人行儀に“璃子さん”と呼ぶ。対照的にお姉ちゃんっ子の私からすれば、二人の関係は何だかもどかしい。

 

 コーヒーを口に運びつつぼんやりとしていれば、不意に奏汰が口を開いた。

 

 

「…最近、あの人とは連絡をとってるの?」

 

「あの人って?」

 

「…姉さんの婚約者候補のこと」

 

「え!? と、とってないよ! あんなに高価なものをもらったんだから、お礼の一つでもするべきなんだろうけど、私連絡先知らないし!」

 

「……俺、誰なんて言ってないんだけど。姉さんの中じゃ、やっぱりあの指輪をくれた人が婚約者候補なんだね」

 

 

 思わず必死になって答えてしまった私は、奏汰の言葉を聞いて顔が熱くなるのを感じた。

 お姉ちゃんが婚約していたこともあって、私も幼い頃に数人の婚約者候補とお見合いまがいのことをしたことがある。その中で私に指輪をくれた彼のことを、私は今でも覚えていた。

 

 黙り込んだ私に、奏汰が尋ねる。

 

 

「好きなの?」

 

「それは…、よく分からないけど」

 

 

 なんといっても、十年前のあの日以来一度も会っていないのだ。連絡先も知らないし、名前だって分からない。両親にきけばすぐに分かることなのだろうけど、今更そのためだけに連絡するのは恥ずかしかった。

 

 けれど、今でもうっすらと思い出せる。指輪をくれた彼が私に向けた優しい笑顔。あの時のことを思い出すだけで、胸の奥が熱を持つのが分かった。

 

 

「姉さん、俺さ…」

 

「ん?」

 

 

 奏汰は開きかけた口を閉じ、結局何も言わずに立ち上がる。

 

 

「何でもない。そろそろ学校に行こう」

 

「う、うん」

 

 

 若干の歯切れの悪さが気になったものの、私は食器をキッチンに持って行き、奏汰の後を追って家を出た。

 

 

 

「それで…。ちょっとかな、聞いてる?」

 

「え? あ、ごめん。ぼーっとしてた」

 

 

 放課後、私はクラスメイトの柴田しばたエリナ、皆川みながわ優里ゆりと共に繁華街を訪れていた。

 

 私が通う秀麗館高校は、比較的裕福な家柄の子どもだけが入学を許される由緒正しい学校だ。車での送迎が認められているものの、私のように毎日徒歩で通学している生徒もいる。エリナちゃんと優里ちゃんもそうで、今日はカフェにでも寄って帰ろうという話になったのだ。

 

 

「えっと、何の話してたんだっけ」

 

 

 私はミルクティーを口に運びながら尋ねる。奏汰が突然あんな話をするから、今日は一日中うわの空で授業も頭に入って来なかった。

 

 

「だから、何か変な感じがしない?」

 

 

 エリナちゃんが周囲に聞こえないよう、声を潜めて言う。エリナちゃんはフランス人とのハーフで、同性の私から見ても凄く美人だ。テーブルに身を乗り出したことで、地毛の金髪がさらりと揺れた。

 

 

「変っていうと…?」

 

「何かこう、前に来た時と雰囲気違うっていうか、前より荒れてるような気がしない?」

 

 

 そう、だろうか。私は店内をぐるりと見回してみる。確かに言われてみれば、そうかもしれない。なんだか柄が悪い人達が多いような。店の奥にいる、いかにもな不良の一人と目が合って、私は慌てて視線を戻した。

 

 

「ほんとだ。今日はそういう人達が集まる日か何かなのかな」

 

「いや、そういうことではないんじゃない?」

 

「そうね。このカフェの店内に限ったことではないと思うわ」

 

 

 そう落ち着いた声色で告げる優里ちゃんに顔を向ける。和風美人の優里ちゃんは、長い黒髪を耳にかけるしぐさだけで、清楚な空気を生み出してしまう。

 

 

「ここに来る間にも、柄の悪い集団をいくつか見かけた。街全体の空気が変わったって言う方が的確かもしれないわね」

 

「街全体が…」

 

 

 エリナちゃんは大きくため息を吐くと、いすの背に体をもたれかけた。

 

 

「一か月前はこんな空気じゃなかったのに…。あんまり長居しない方がいいわよね。友達に聞いた噂によると、最近妙に目立つ奴らが街をうろついているって話だし」

 

「目立つ奴ら?」

 

「聞いたことない? 凄く目を引く双子がいるらしいわよ」

 

「双子…。さあ」

 

 

 生憎、普段は誘われない限り真っ直ぐ家に帰っているし、奏汰といてそんな話題が上ったこともない。まあ、奏汰も友達と寄り道するなんてことはまずないから、当然と言えば当然なのかもしれないけど。

 

 

「通称ダブルハル……だったわね」

 

「え、優里ちゃんも知ってるの?」

 

「私はたまに一人で買いものに来るから。でもその呼び名も他校の女子が話しているのを聞いただけで、実際に見たことはないわね」

 

 

 そんなに有名なんだ。帰ったら奏汰にきいてみよう。そう思い、私は残りの紅茶を飲みほした。

 

 

 

 明るい内にとカフェの前で二人と別れ、私は夕日が照らす街を一人で歩く。二人の家は反対方向にあるから仕方がない。一年生の頃から仲よくしていた二人と、また同じクラスになれただけで私は十分満足だった。

 

 人込みの中を進みながら、一度奏汰に連絡を入れておこうと携帯を取り出す。奏汰は過保護だから、以前連絡なしで遅く帰宅した私を、家の前で待っていたことがあった。私はその日、携帯を家に忘れていたから電話ができなくて、目が合ったとたん凄く怒られたのを覚えている。今思い返しても、どちらが年上か分からない。

 

 発信ボタンを押そうとした時、前方不注意になっていた私は前から来た人に肩をぶつけてしまった。その拍子に手から落ちた携帯は、歩道を滑って柄の悪い男達の足元で止まる。あっと思った時には、携帯は既に男達の一人に拾われていた。

 

 

「す、すみません」

 

 内心びくつきながらも、男達に声をかける。一刻も早くこの場を立ち去りたい心情なのだが、男達は予想外なことにすぐに渡そうとはしなかった。

 

 

「あ、あの?」

 

「何だよ。人に拾ってもらっておいて何もなしで返してもらうつもりかよ」

 

「え?」

 

「だから、返して欲しいなら代わりに何か差し出すのが常識じゃないのかって言ってんだ」

 

 

 な、何この人達…。常識って、いやいや、そんな常識あるはずない。

 

 私が狼狽えている間にも、男達は逃げ道を塞ぐように取り囲んできた。他の通行人達は、この状況に気づいているはずなのに、見て見ぬふりをして通り過ぎて行く。

 

 

「その制服、秀麗館だろ? なら金持ちだよな、お前。俺達にちょっと恵んでくれよ」

 

「あっ」

 

 

 横にいた一人に鞄を取られ、勝手に中身を漁られる。

 

 

「財布はっと…、何だあ? そんなに入ってねーじゃんか」

 

 

 だって、さっきカフェでお金払ったし、普段から大金を持ち歩いたりしないから。

 

 

「まあいい。とりあえずこれで勘弁してやるよ」

 

 

 そう言って男は鞄を放り投げ、財布ごとお金を持って行こうとする。

 

 

「そ、それはだめ!」

 

 

 その財布は、去年の誕生日にお姉ちゃんがくれたものなんだから!

 

 咄嗟とっさに財布に向かって伸ばした手は、他の男に掴まれる。強い力で容赦なく手首を握られ、悲鳴にならない声が出た。

 

 

「しつこいんだよっ。諦めやがれ!」

 

 

 視界の端で、男が手を振り上げるのが見える。

 

 ―――殴られる! 反射的に目をつぶった私は、一向にやって来ない痛みに恐る恐るまぶたを開いた。

 

 目の前には見知らぬ人物の背中。金色の髪をしたその人物が、私と男の間に立って今にも振り下ろされようとしていた拳をくい止めている。

 

 

「ぁあ? 何だお前」

 

「何って、それはこっちの台詞なんだけど」

 

 男達が突如現れたその人物を見つめる中、当の本人は余裕をにじませた態度で微笑んで見せた。

 

「だからさあ、調子に乗ってんじゃねえよってこと」

 

 

 ガッと何かがぶつかり合うような鈍い音が聞こえ、同時に背後から悲鳴が上がった。私が振り返った瞬間、何かがすぐ横を飛んでいく。―――人、だ。

 

 

「はーい、クリーンヒット! 悪の手先三号は正義の蹴りをくらって地獄に落ちましたとさ」

 

 

 そう楽しそうに言うのは新たにやって来た人物で……って、あれ?

 

私はたった今背後で男を蹴り飛ばしたらしい人物と、私をかばってくれた人物を見比べる。

 

 

「う、嘘…」

 

 

 金色の髪も、整った綺麗な顔立ちも、細身の体型も、何もかもが鏡みたいにそっくりで。茫然とした一拍後、私は先程のカフェでの話を思い出した。

 

 

「ナイス、ハル! んじゃあ俺もっ」

 

「ぐはっ…」

 

 

 目の前で男の手を掴んでいた方の彼が華麗な回し蹴りを決め、私は両手を口元に当てて悲鳴を堪える。男達は次々と襲いかかるも、二人は息ぴったりの動作で瞬く間に全員を倒してしまった。

 

 

「よっわいなーこいつら」

 

「ほんとになー」

 

 

 歩道に伏せている男達を踏みつけながら、そっくりな彼らはケラケラと笑っている。そんな中、私は唖然として二人を見ていることしかできなかった。

 

 

「にしてもハル、こんなとこで喧嘩したらまた王子に怒られんじゃねえ?」

 

「そうだなハル。けどまあ、今回ばかりは人助けってことで」

 

 

 お互いをハルと呼び合う彼ら。じゃあやっぱり、この人達が…。

 

 

「ダブル…ハル…?」

 

 

 そうつぶやいた瞬間、同時に振り向いた二人に真っ向から見つめられ、私はびくりと肩を揺らした。

 

 

「あれ? 俺らのこと知ってんの?」

 

「その制服は秀麗館だろ。お嬢様のくせによく分かったな」

 

 

 大げさに驚いた素振りを見せる彼らを、不躾にならない程度に改めて観察する。

 

 彼らがまとっているのは、街で何度か見かけたことのある男子校の制服。着崩し方まで同じ二人だが、よく見ればわずかに違うところもある。前髪を左右どちらに分けているかということと、それぞれ片耳につけているピアスの色だ。しかしそれ以外は、本当にどこを取っても一緒だった。

 

 

「秀麗館、ねえ。どう思う? ハル」

 

「奇遇だなハル。俺も今同じこと考えてた」

 

 

 二人が何やら顔を見合わせて話し出したので、私は歩道に散乱している自分の荷物を拾い始めた。口が開いたまま放り投げられたため、教科書などが鞄から飛び出してしまっている。周囲の視線が突き刺さっているのを感じるが、最近街で有名になっている双子が盛大に喧嘩をしたのだから当然だろう。落ちたものを全て片づけてからお礼を言って、早々に立ち去ろう。そう思っていると、いつの間にか双子が私を見下ろして微笑んでいることに気がついた。

 

 

「これ、お前の携帯だろ?」

 

「この財布もそうだよな」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 

 二人から携帯と財布を受け取り、私は思いがけず親切な行為に驚きつつも頭を下げた。見た目のインパクトが強いためてっきり怖い人達だと思っていたが、実は普通にいい人達なのかもしれない。さっきだって、喧嘩になったけど私を助けてくれたし。

 

 

「助けていただいて、本当にありがとうございました」

 

 

 そう言ってその場から離れようとすると、二人が素早い動きで私の行く手を塞いだ。

 

 

「それはそれは、どういたしまして。でもお前、俺達が助けなかったら今頃一発殴られてただろうなー。いや、一発じゃ済まなかったかも」

 

「秀麗館の女なんていくらでも使い道あるからなー。上手くやれば大事な財布を人質に、もっと金を巻き上げることだってできたわけだし?」

 

「そうだよなー。俺達がたまたまこの道を通りかからなかったらなー」

 

「お前を助けた俺達は偉い。だからお前は当然俺達に感謝するべきだよなー?」

 

「え、えっと…。感謝、してます…」

 

 

 二人の押しの強さに圧倒されてそう答えれば、待ってましたと言わんばかりに輝かしい笑顔を浮かべた双子。その笑みに黒いものを感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。

 

 

「だよなあ。そう言うと思ったよ」

 

「ならもちろん、してくれるんだろ? 恩返し」

 

「お、恩返し…?」

 

 

 これはまずいと、鈍い私でもさすがに分かった。だけど逃げるには、ほんの一瞬遅過ぎたんだ。

 

 

「あのっ、すみません私…、きゃ!」

 

「ストーップ! 逃がすわけないじゃん」

 

「そうそう。別にとって食う気はないからさ。お前は俺達にちょっとついて来てくれればいいだけの話だよ」

 

 

 二人に両肩を掴まれ、動きを封じられる。双子は大柄な体格ではないとはいえ、男二人に押さえられて逃げ出すのは不可能だった。

 

 

「そうと決まれば早速行くか」

 

「大丈夫。なんたって俺達“いい人”だからさー」

 

 

 両側から顔を寄せ耳元でそうささやいた彼らに、私は色をなくしてゴクリとつばを飲み込んだ。

 

 

 

「ここだよ」

 

 

 双子の内、右耳に紫のピアスをした方がドアの前で立ち止まって言った。

 あの後、両脇から拘束されて強制的に連れて行かれた場所は、意外にも高級感溢れるマンションだった。まさか屋内に連れ込まれるとは予想していなかった私は、マンションの前でなけなしの抵抗をするも、あっけなく両腕を掴まれて終わりだった。

 

 それからエントランスホールを抜け、現在私は最上階にある部屋の前にいる。嫌な汗が、背中を伝った。

 

 

「あ、あの! 待ってください!」

 

「今更何を待てって?」

 

「ここはいったいどこなんですか? どうして私をこんなところに?」

 

「それは中で話すって何回も言ったじゃん。なあハル、もしかして俺達警戒されてる?」

 

「きくまでもなく、そうだろ」

 

「む、無理です! どうしてもって言うならせめて弟に連絡させてください!」

 

 

 全く聞く耳を持たない二人に焦燥しょうそうつのる。まさかとは思うが、このまま連れ込まれて酷いことをされないとは限らない。幸いと言っていいのか、ここがどの辺りなのかは分かる。逃げられないのなら、せめて誰かに助けを求めるチャンスが欲しかった。

 

 

「こいつめんどくさいなハル」

 

「ああ。こういうのを説得するのは俺達の役割じゃないし、王子にやってもらうのが早いだろ」

 

「だな。おいお前、手は出さないって誓ってやるから中に入れよ。あんまりもたもたしてると恐ろしい俺達の仲間が…」

 

 

 左耳に青いピアスをしている方の言葉をさえぎるように、目の前のドアが開いた。ドアの正面に立たされていた私は、中から出て来た人と思いきり目が合ってしまう。

 

 ダークブラウンの柔らかそうな髪に、甘めの顔立ち。どことなく大人びた印象を与えるその人は、物語の世界から抜け出した王子様のようだった。彼は私を見て数秒動作を止めた後、いつの間にか私の後ろに隠れていた双子に目を向けた。

 

 

「…どういうことか、説明してもらえるかな?」

 

 

 そう問いかける顔には優しげな笑みが浮かんでいるが、目が笑っていない。双子もそれに気づいているのか、これまでになく焦った様子で口を開いた。

 

 

「あっれー、噂をすればってやつかな。いやー王子、これには深いわけがだな」

 

「そうそう。俺達なりによかれと思ってしたことなんだよ。だから、その、ここに部外者を連れてくるなって言われたことを忘れたわけじゃ…」

 

 

 双子の必死の弁解に、容姿そのまま王子という名前で呼ばれる彼はにこりと微笑む。

 

 

「で? 言いたいことはそれだけ?」

 

 

 ―――こ、怖い! 表情と口調が優しいせいで、冷え切った目が彼の怒りを象徴しているようだった。双子に対するものとは別の恐怖を感じてびくついていると、不意に彼の視線が私に向けられる。

 

 

「……秀麗館か。なるほど、そういうことね」

 

「え…?」

 

れい、どうする?」

 

 

 彼は意味深に呟いた後、部屋の中に向かって声をかけた。暗がりに紛れていて気がつかなかったが、彼の後ろにも誰かがいるようだ。その人物はゆっくりと、廊下の照明が届く場所までやって来る。

 

 黒髪の下からのぞく瞳が私を捉えた瞬間、私の胸は微かなざわつきを見せた。

 

 しかし目が合っていたのは一瞬で、その人物は綺麗な顔に不快げな表情をにじませる。そして仕方がないというように大きく息を吐くと、告げた。

 

 

「―――言いわけは中で聞いてやる。入れ」

 

 

 私はどこか遠くでその声を聞きながら、今この瞬間、確かに何かが動き出すのを感じていた。