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5話 A Danger Signal

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「―――姉さん、その人達、誰?」



 奏汰かなたがいつにも増して無表情に問いかける。


 気まずい沈黙を破ったのは、この場の状況をいち早く把握した双子だった。



「あ、弟さんですか? どうも」


「俺達さっき、偶然街でお姉さんを見かけて。道に迷ってるみたいだったから、ここまで送って来たんですよ。ねえ?」



 双子らしからぬ礼儀正しい口調で言われ、私は一瞬動揺する。しかし二人の目が“話を合わせろ”と言っているのに気づいて、咄嗟とっさうなずいた。



「そ、そうなの! 友達に呼び出されて普段行かない方面に行ってたから、いざ帰ろうと思ったらどこにいるのか分からなくなっちゃって!」


「…へえ」



 奏汰はスッと目を細め、双子に向き直る。



「姉がお世話になったみたいで、ご迷惑をおかけしました」


「いえいえ」


「それじゃあ、俺達はこれで」



 双子が去り、私は何とかごまかし切れたとほっと胸を撫で下ろす。あの二人が上手く嘘をついてくれて、助かった。不器用な私一人では、奏汰の追及をかわし切れなかっただろう。


 家の前に立っていると、奏汰に「入らないの」と尋ねられる。



「あ、うん。……あれ? 奏汰、どこかに行こうとしてたんじゃなかったの?」


「別に。出て行く時の姉さんの様子が気になったから、街の方でも見て回ろうかと思っただけ。電話したけど出なかったし」


「電話?」



 言われてバッグから取り出してみると、確かに奏汰からの着信履歴が残っていた。



「ごめん、全然気づかなかった」



 あれだけ走り回ったりしていたのだ。店内はBGMもかかっていたし、とにかく慌ただしくて着信音など聞こえなかった。


 玄関に入り謝ると、奏汰は既に靴を脱いで廊下に立っていた。無言で私を見つめている。もしかして怒っているのだろうか、と不安になるが、奏汰は私から目をそらし、「別にいいけど」と告げた。


 それからリビングに入ろうとした奏太は、不意に振り返り二階に上がろうとしていた私を呼び止める。



「姉さん、」


「何?」


「……今日も、優里ゆりさん達に会ってたんだよね?」



 真っ直ぐな瞳に、私のついた下手な嘘が見抜かれているような気がした。


 だけどそんな確証もないし、あったとしても彼らとの関係を話すわけにはいかない。


 私が不良チームのメンバーに会っていて、協力を頼まれているなんてことが分かれば、奏汰はきっともの凄く心配するだろう。


 普段は素っ気ない態度を取っていても、奏汰が優しい弟ということは私が一番よく分かっている。



「…うん。着替えたら夜ご飯の準備するから、ちょっと待っててね」



 私は罪悪感を押し殺して笑顔をつくる。


 「そう…」と目を伏せてリビングに入って行った奏汰の背中を見送り、私は改めてこの現状をどうにかしなければ、と思った。


 志鷹したかさんに真剣に頼まれたけれど、やはり私には荷が重い。


 次にマンションに行った時には必ず断ろうと決意し、私は階段に足をかけた。




 週が明けた月曜日、私は帰りのホームルームが終わると急いでマンションに向かった。


 繁華街には多くの人々がいる。学校帰りに街にやって来た学生、帰宅するサラリーマン、もしかしたらどこかの不良チームに属しているかもしれない、派手な青年の集団。


 雑踏ざっとうする大通りを早足で進みながら、私は初めてマンションを訪れた時のことを思い出していた。


 ちょうどこのあたりで不良達に絡まれ、あの双子が現れた。同学年の男子にしては小柄な彼らは、自分より大きな相手をいとも簡単にやっつけてしまった。


 ピアスの色と前髪の分け方しか、見分ける方法がない彼ら。いい人かもしれない、と思った数日前の自分が懐かしくなるくらい、私はさんざん双子に振り回された。


 もしもあの時、二人にマンションへ連れて行かれなかったら、今私はこれまで通りの平凡な生活を送っていたはずだ。


 ネックレス探しを強要されることもなく、志鷹さんに双子のことを相談されることもなく、こうして街へ頻繁に足を運んでもいなかったに違いない。


 私は小さくため息をつき、しっかりしろ、と自分に喝を入れ前に向き直る。そして、ファーストフード店の前にいる人物がふと目に入った。


 入り口を塞ぐようにしてしゃがみ込んでいるはた迷惑な人物を見て、思わず立ち止まる。



「あれって…」



 見覚えがある、というより衝撃的な記憶が焼きついて離れないあの人だ。


 確か名前は―――潤賀うるがさん。


 ネックレスのためとはいえ、突然人に殴りかかった人。その様子を思い出し、このまま知らんぷりして通り過ぎようという考えが頭をよぎる。


 しかし、あまりに出入りする人の邪魔になっている上、店員が注意しようか迷っている様子で彼を見ていたため、私は意を決して彼に近づいた。



「…あの、」



 いわゆる“不良座り”をしている潤賀さんに声をかけると、精悍な顔がこちらを向く。



「ぁあ?」



 茶金に赤メッシュという奇抜な髪の下から、私をにらみつけるように見据える鋭い眼光。それに身を引きかけたが、何とか勇気を振り絞り、口を開いた。



「潤賀さん、ですよね。先週一度お会いしたんですけど…私のこと覚えてませんか?」


「先週? ……そういや、うぜえ双子と一緒にいた気がするな」



 潤賀さんは暫く黙った後、思い出したように言った。



「で? 俺に何の用だ」


「その、用と言うか…。何をしているんだろうと思って」


「んだそれ。そんなことのために、わざわざ声かけたのかよ。見りゃ分かるだろ、しゃがんでんだよ」



 ―――いや、そういう意味じゃなくて…!



「どうしてこんなところにしゃがんでるのかなって…」


「んなもん、金がないからに決まってんだろ」


「お金?」


「腹が減って歩いてたら、ちょうどこの店の前通りかかってよお。けど金ねえし、無銭飲食したらパクられるだろ」


「…それで、さっきからここに?」


「ああ」



 ………何というかこの人、いろいろな意味でおかしい。普通お金を持ってない時点で、諦めて帰るところだろう。



「でも、ここにいるとお店の迷惑になりますし…」


「俺がどこにいようと俺の勝手だろ。臭い嗅ぐのにも金が要るって言うのかよ、テメーは」



 頬が引きつるのが自分でも分かった。しかし、そろそろ本当に店員が出て来そうなのを見て、一つ提案をしてみる。



「……入りませんか、お店」


「あ?」


「お金は私が払いますので」




 数分後、目の前には勢いよくハンバーガーを口に運んでいる潤賀さんがいた。その様子を見て、私は閉口する。


 あれから店に入った私達だったが、遠慮というものを知らない潤賀さんはハンバーガーを五個も頼んで、幸せそうに食べている。私はオレンジジュースだけ買って、そんな潤賀さんを見ていた。


 店の中で最も背が高いであろう潤賀さんは、よく見ると制服らしき服を着ている。かなり着崩していたので、今まで気づかなかった。それに肌寒い時期にも関わらず、学ランを身につけていない。



「…あの、潤賀さんは高校生なんですか?」


「ああ。それが何だよ」


「あ、いえ。この前は私服を着ていたし、背が高いから、てっきりもっと年上なのかと…」


「よく言われる」



 潤賀さんは黙々とハンバーガーを食べている。双子が年上だと言っていたから、三年生なのだろう。


 もしかして志鷹さんや逢坂おうさかさんも高校生なのでは……という疑問が浮かんだ時、潤賀さんの鋭い視線が私に向いた。


「テメー、俺のこと怖くないのかよ」



 怖い…? 確かに、初対面の印象や今の常識外れの行動を考えると、怖くないとは言い難い。その証拠に、今だって潤賀さんの言動いちいちびくびくしているのだ。


 先ほどから他の客や店員も、ちらちらとこちらを見ている。十中八九、潤賀さんが突然危険な行為に及ばないか心配なのだろう。


 それくらい、潤賀さんは普通の人とは違うオーラを放っていた。



「……正直に言うと、少し怖いです。でも、私は直接何かされたわけではないですし、この数日で多少は人に振り回されることに慣れたので。だから、今すぐ逃げ出したいと思うほど怖くはないです」



 いくらなんでも正直に言い過ぎたかと思ったが、潤賀さんは特に表情を変えないまま「ふーん? 変なやつもいたもんだな」と言う。その台詞、あなたには言われたくないです。


 潤賀さんは再び黙々とハンバーガーを食べ、私も黙ってオレンジジュースを口に運ぶ。不思議な沈黙が続いた後、口を開いたのは私の方だった。



「一つ、質問してもいいですか?」


「何だよ」


「潤賀さん達は…、どうしてネックレスを手に入れたいんですか?」



 前に志鷹さんに尋ねた時、答えをあやふやにされてしまった。


 ネックレス探しを断ることは決めている。けれど、最後にそれだけは知りたかった。あの時の志鷹さんの切なげな目が、忘れられない。



「俺は別に、どーでもいい」


「え?」


「あれを探してえと思ってんのはれいだろ。ああ、拓海たくみもやる気だったか。あのバカ双子も探そうとはしてるみてーだが、半分面白がってるだけだ。俺も、借りがなきゃんなめんどくせえことしねーよ」



 予想外の返答に、目を丸くする。


 全員一致でネックレス探しをしているとばかり思っていたが、実はそういうわけでもないのだろうか。



「まあ俺は、その辺にいる雑魚どもを好きなだけ殴れりゃ、それでいいんだけどよ」



 物騒なことを言う潤賀さんにそれ以上尋ねる気にならず、私は少し苦みのあるオレンジジュースを飲み込んだ。




 店を出ると、夕日は既にビルの向こうに沈んでしまっていた。


 潤賀さんもマンションへ行くと言うので、二人並んで街灯に照らされた道を歩く。相変わらず人通りは多いが、皆が潤賀さんを避けて歩くため、一人の時よりずっと楽に進めた。


 奏汰が心配しているだろうなと考える。でも、それも今日で終わると自分に言い聞かせた。


 いつ終わるか分からないネックレス探しを手伝わされるより、個人情報を調べられても平穏な毎日を過ごす方がずっといい。


 彼らが明らかに危険な人達ならそんなことは言えないが、そこまで非情な人物ではないと判断した結果だ。


 ほんの一瞬脳裏に浮かんだ、志鷹さんの真剣な表情。それを打ち消すように頭を振り、近くに迫ったマンションの影を見上げた。


 ―――大丈夫。できないことはできないときちんと断るのが、私にとっても彼らにとってもいいことだ。下手にずるずると関わり続けるべきではない。


 意思を固め息を吐き出すと、隣を歩いていた潤賀さんが突然足を止める。


 立ち止まって潤賀さんを見上げると、彼は険しい面持ちで前方を見つめていた。


 その視線を追って、前を向く。何やら不穏な空気を放つ集団が、こちらに向かって来ているのに気がついた。


 逢坂さんの言葉でいう“一般人”の私にも分かるくらい、彼らは明らかな敵意をこちらに、潤賀さんに向けている。



「…おいテメー、巻き込まれたくなかったら後ろに下がっとけ」



 声を低くした潤賀さんに言われ、私は大人しく後退する。潤賀さんから二、三メートル離れたところで、男達の中の一人が、他の人達を従えるように前に出た。


 その手には金属製のバットが握られていて、後ろの人達もそれぞれ似たような武器を持っている。それをどう使うかなど、想像したくもなかった。



「よお潤賀。久しぶりだなー。この前は俺のダチ病院送りにしてくれてありがとよ」


「誰だテメー」


「はっ、もう忘れたのかよ。ムカつく野郎だなテメエは。今日こそその連勝記録ストップさせてやっから、覚悟しろよ」



 挑発的な言葉を浴びせかける男に、潤賀さんの眉が寄る。



「テメーのことなんか知らねーけどよ、喧嘩売られてるって思っていいんだよなあ?」


「俺らに勝てると思ってんのかよ。いくらテメエでも、チーム全員の前じゃ、手も足も出ねえだろーが」


「…チーム、つったか、今」


「ああそうだよ。さすがのテメエも怖気づいたみてーだな」



 男があざ笑うように言うと、後ろの男達からも笑いが起こる。しかし潤賀さんは、にっと口元を緩め、さも愉快そうに告げた。



「いや。手加減する理由が、なくなったってだけだ」


「何だと?」


「一般人には手を出すなとか言ってくるやつがいんだけどよお、テメーらは思う存分、ぶん殴っていいってことだろ」


「っ、テメエ! お前ら、やれ!」



 男の一言で、後ろに控えていた男達が一斉に潤賀さんに襲いかかる。同時に、潤賀さんも男達の中に突っ込んで行って、一気に乱闘となった。


 潤賀さんは強かった。大勢に囲まれているというのに、数をものともせずに次から次に武器を振り上げて来る相手を倒していく。長い手足を活かした尋常でないスピードの攻撃は、一撃で相手を地面に伏せさせた。


 これなら潤賀さんは大丈夫そうだ、と気を緩めた時、不意にリーダー格の男と目が合った。


 嫌な予感がして逃げ出そうとした―――が、逃げるより早く、男が私を羽交い絞めにする。



「きゃあ!」


「潤賀ぁ! こいつを傷つけられたくなかったら大人しくしろ!」


「ああ?」



 動きを止めてこちらを見た潤賀さんは、ぐっと眉間にしわを寄せて舌打ちをした。



「卑怯な野郎だな。一人で喧嘩する度胸もなけりゃ、女を人質にするほど落ちぶれてんのかよ。マジで興ざめだ。つまんねー」


「黙れっ! そのままじっとしてろよ!」



 男が何かをズボンのポケットから取り出し、私の首に当てる。ひやりとした感触に、頭が真っ白になった。


 男が私を捕まえたまま、潤賀さんの方へ引きずって行く。潤賀さんの真横を通る時も、私の身体を盾に、荒い息を上げていた。


 私は反対に息を潜め、少しでも動けば肌を切り裂きそうな刃から身を守ることしかできない。


 男は潤賀さんと睨み合ったまま、ここに来る際に使用したであろうワゴン車へ歩みを進めた。リーダーが退却しているのを見て、他の男達も我先にと逃げて行く。


 いよいよ残るは、私を羽交い絞めにしている男のみとなった。男は無理矢理私を車に押し込もうとする。



「っ、嫌…!」


「ちっ、」



 潤賀さんが一歩足を踏み出しかけたその瞬間、私と男の後ろでジャリッと砂を踏む音がした。


 「ぐっ…」と、男が小さなうめき声を発して、横に倒れる。


 男の腕から解放された私はその場に膝をつき、刃物の感覚が残る首に手を当てた。幸い、切れたりはしていない。



「おい、大丈夫か?」



 その声に振り返ると、そばにしゃがみ込んでいる志鷹さんの姿があった。漆黒の瞳は、私を心配するように微かに揺れている。



「し、たかさん…」



 安心したせいだろうか。目元がじわじわと熱を持ち、堪え切れなかった涙がぽろりとこぼれた。



「っ、ご、ごめんなさ…。私…」



 手で涙を拭って泣き止もうとすればするほど、止めどなくあふれて来る涙で頬が濡れていく。


 恥ずかしい。泣き止まないと。そう思うのに、できないから悔しい。


 どうしようもない羞恥心に襲われてうつむいていると、思いがけない温もりを感じた。



「し、志鷹さん…!?」



 自分が志鷹さんの腕の中にいると気づき、慌てて身体を離そうとする。


 しかし、志鷹さんは私の背中をポンポンと叩き、泣きじゃくる子どもを落ち着かせるようにゆっくりと告げた。



「―――もう大丈夫だ。怖い思いをさせて、悪かった」


「っ…」



 耳元で放たれる優しい言葉に力が抜けて、私は無意識のうちに志鷹さんの服をつかんでいた。涙はもう、我慢できない。


 それから私が泣き止むまでの数分間、志鷹さんは黙って背中を叩いてくれていて、私は生まれて初めて他人の前で声を上げて泣いた。




「もう平気か?」


「はい…。ありがとうございました」



 志鷹さんに支えられて立ち上がり、私は手で顔を隠したまま下を向いている。


 とてもじゃないが、今志鷹さんの顔は見れない。恥ずかしくて、穴があったら入りたい。


 夜でよかった。明るかったら、顔が真っ赤なのがばれてしまうから。



「つーか、よくあのタイミングで出て来れたな」



 少し離れた場所から潤賀さんの声が聞こえて、私は肩を揺らす。そうだ。すっかり忘れていたけれど潤賀さんもいたんだった。



「お前を呼んでたのになかなか来なかったから、探しに来た」



 志鷹さんは淡々と言い、潤賀さんに顔を向けた。


 彼の視線が自分からそれたことにほっとし、私は落としていた鞄を拾いに行く。


 この間から乱雑に扱われているためか、鞄には擦り傷がついていた。まだ後二年近く使うのだから大事にしなければ、と鞄の汚れを払い、私は顔を上げる。


 その瞬間視界に飛び込んできた光景に、私は反射的に叫んでいた。



「―――志鷹さん!」



 ほとんど悲鳴のような私の声に、潤賀さんと話していた志鷹さんが振り向く。


 志鷹さんのすぐそばに迫ってナイフを振り上げていた男は、先ほどまでそこに倒れていたはずの人物だった。



「っ、」



 ナイフが志鷹さんの右腕をかすり、ジャケットが破れる。志鷹さんはそれでも素早い動きで何とか攻撃を避け、その横から、潤賀さんが重い蹴りを男の顔面に叩きつける。骨が折れたような鈍い音がして、男は今度こそ完全に動かなくなった。



「志鷹さん! 大丈夫ですか!?」


「…ああ、問題ない」



 志鷹さんは冷静だが、駆け寄った私の目には、志鷹さんの腕から血が出ているのが見えた。



「た、大変です! は、早く病院に…!」


「このくらい平気だ。そんなことより、こいつの仲間がいつ戻って来るか分からない。今、拓海に電話して車を寄越させるから、お前は大通りに行って迎えを待ってろ」



「でもっ」


「心配するな。大通りなら人もたくさんいるし、コンビニにでも入ってれば安全…」


「そうじゃありません!」



 業務事項でも確認するように淡々と話す志鷹さんに声を上げると、志鷹さんは驚いたらしく目を見開く。


 元来の臆病な性格はどこへやら。私は志鷹さんに対して、憤りを感じていた。



「さっきから私のことばかり心配して、志鷹さんは自分のことを軽く見過ぎです! もっと自分を大事にしてください!」


 志鷹さんはポカンと口を開けて、珍しく唖然とした表情をしていた。気まずそうに一度私から視線を外し、ぼそりと言う。



「……けど、やっぱり帰れ」



 その言葉に、私の中で何かが切れた。それは冷静な判断力とか、礼儀だとか、きっとそういうものだったと思う。


 とにかくこの時の私は何かいつもと違っていて、その何かが私から彼らへの怯えを消し去っていた。



「…帰りません」


「帰れって」


「帰りませんってば!」



 その間に、言い合いを続ける私達に愛想が尽きたらしい潤賀さんは、「つき合い切れねえ」と去って行った。


 暫く押し問答を繰り広げた末に折れたのは、志鷹さんだった。彼は「はあ」とため息をつき、「勝手にしろ」とつぶやいた。


 むしろ、ここまで私と押し問答を続けていたことが意外だった。もしかすると、案外子どもっぽい面があるのかもしれない。


 一息ついたのも束の間、志鷹さんは続ける。



「ただし、これ以上深入りするなら、それなりの覚悟を持ってもらうことになる。…それでも帰らないって言うなら、ついて来い」



 そう言って私に背中を向け、マンションへ向かう志鷹さん。


 私は告げられた警告の言葉を心の中で反復しながら、鞄から携帯を取り出した。そして奏汰に電話をかける。



「―――もしもし、奏汰? …今日、いつもより帰りが遅くなっちゃうかもしれない。ごめんね。理由は今度話すから。それじゃあ」



 半ば一方的に通話を切り、私は少し遠くなった志鷹さんの背中を見つめる。


 今志鷹さんを追いかければ、私は彼らとの間に引かれた境界線を越えてしまうことになるのかもしれない。


 だけど―――…。


 私はうるさく鳴り響く胸に手を当て、彼の元へと駆け出した。